松ケ崎妙法送り火 京都市登録無形民俗文化財
起源と歴史

松ケ崎妙法送り火の起源には諸説ありますが、ここでは松ケ崎の涌泉寺(ゆうせんじ)に伝わる伝承と、歴史史料に見られる記述を紹介します。

涌泉寺は現在日蓮宗の寺院ですが、その歴史をたどると元来は天台宗の寺院で歓喜寺といい、叡山三千坊の一つでした。鎌倉時代後期の永仁2年(1294)、日蓮聖人の孫弟子である日像上人(1269~1342)が洛中で辻説法を行った際、それを聴いていた歓喜寺住職の実眼僧都は説法に感激し、自ら上人の門弟となって村民への布教に努めましたが、この時は村全体での改宗には至りませんでした。その後、徳治元年(1306)の旧暦7月に、実眼は日像上人を松ケ崎に招いて説法の場を設けました。日像上人の教えに村の里人470人余が帰伏し、これにより一村をあげて天台宗から日蓮宗に改宗しました。実眼は喜びのあまりその場で踊ったと伝わり、この踊りが松ケ崎題目踊の起源とされています。これ以後寺号は歓喜寺から妙泉寺へ改められ、この妙泉寺が本涌寺(1574年に建てられた日蓮宗の檀林)と合併し、大正7年(1918)に現在の涌泉寺が建立されました。

涌泉寺の寺伝によれば、西山の「妙」の字は、天台宗から日蓮宗に改宗した際に日像上人が画いたとされています。また東山の「法」の字は、それより遅れて江戸時代に日良上人(1590~1660)が画いたとされます。妙の字体が草書体であることに対し、法の字体は隷書体であることからも、そのことが推察されます。

本来、横書きの場合は今と違って右から左に読みますが、妙法は左から右に読みます。この妙法の左読みについては、妙の字が松ケ崎の西端にあったため、法の字は東に書くしかなかったからだろうと伝えられています。

歴史史料において、「妙」や「法」に関する記述の初期のものとして注目されているのは、江戸時代前期の公卿・中御門宣順(1613~1664)の日記『宣順卿記』の承応3年(1654)7月16日条です。そこには、

山々之火 東山大文字、北山法文字、西山大文字、南、為見物………

とあり、「妙」の字について記されていません。しかし、江戸時代の山本泰順が刊行した地誌『洛陽名所集』(1658)や中川喜雲の観光案内書『案内者』(1662)では「妙法」と記載されています。ここでは、そのうち『案内者』の一節を紹介します。

山々の送り火、但し雨ふればおぶるなり……松ヶ崎には妙法の二字を火にともす、山には妙法という筆画に杭をうち、松明を結び付けて火をともしたるものなり。北山には帆かけ、船、浄土寺には大文字皆かくのごとし

このように、早い時期から「妙」と「法」で一組だと考えられるようになったと推測されます。日蓮宗徒の唱えるお題目は「南無妙法蓮華経」であり、2文字が一体である由縁です。

送り火の点火執行

8月16日朝早くから、松割木を山に運んで点火の準備を行います。

かつては現在の京都工芸繊維大学の敷地内に火小屋があって、そこで火をかざし、それを合図に一斉点火していましたが、令和2年(2020)までは、株式会社かんぽ生命保険・京都事務サービスセンターの協力により、その屋上からの合図によって点火を行っていました。令和3年(2021)からは、京都事務サービスセンターの移転にともない、京都工芸繊維大学学生館の屋上から点火を合図しています。点火の際には、妙の字の山で涌泉寺住職及び同寺総代・堂講による読経が行われます。

なお、点火終了後の午後9時ごろから、涌泉寺で、題目踊・さし踊を踊ります。この題目踊・さし踊は、点火前日の15日にも午後8時から踊られており、16日よりもゆったりと長い時間、踊りを楽しんでいます。

保存会 保存会地図

公益財団法人松ヶ崎立正会
奉仕戸数:73戸
旧松ケ崎村は大きく東と西の町組に分かれ、さらに西の町組は堀之町・中之町・辻之町・西之町・川之町の五つの町に分れています。「妙」を点火する西は町ごとに、「法」を点火する東は家ごとに火床が決められています。

火床の構造

かつては、杭の上に松明を結んで点火したり、穴を掘って石を置いて火床を作り点火していましたが、「妙」は昭和41年度(1966)、「法」は昭和45年度(1970)から、鉄製の受け皿火床が斜面に設置され、それに割木を井桁に組んで点火しています。「妙」は平成24年度(2012)に、「法」は平成25年度(2013)にステンレス鋼製の受け皿火床に更新されています。


妙の文字 幅95m 高さ77mなど各線の長さ 妙の文字 火床数詳細図 法の文字 各辺の長さ詳細図 法の文字 火床の数詳細図
全体の大きさと各々の火床数
火床はステンレス鋼製の受け皿火床が斜面に設置され、その上に松割木を組まれる
火床の構造
点火資材

松割木を使用し、井桁に積み重ねています(高さは約1mに達します)。
松割木:332束 松葉:166束(初期点火用に使用)

点火資材

京都市登録無形民俗文化財

松ケ崎では、前日の15日午後8時ごろと16日の点火終了後の午後9時ごろから、涌泉寺で題目踊とさし踊が催されます。

題目踊は、涌泉寺の前庭で、「南無妙法蓮華経」のお題目に節をつけて繰り返す、題目音頭に合わせて踊ります。その始まりは徳治元年(1306)年7月16日、松ケ崎全村が日蓮宗に改宗した時に遡るとされています。里人が「南無妙法蓮華経」に手を合わせ拝む姿を見た実眼は喜び踊躍し、太鼓を打ちながら、「南無妙法蓮華経」と唱えました。そこにいた里人も「南無妙法蓮華経」と声を合わせて跳ね踊ったといい、日本最古の盆踊りともいわれています。それから毎年、7月16日(旧暦)の夜、お寺の本堂の前で題目踊が踊られるようになりました。

承応年間(1652~55年)、後水尾上皇と東福門院がご高覧になったと伝えられ、その御席にあった松の木は「御幸の松」と呼ばれ、松ケ崎小学校(当時の妙泉寺)開校後も大切に保存されました。昭和47年(1972)に枯れてしまいましたが、その切株が校舎内に保存されています。

前庭の中心に並べた大太鼓を独特のばちさばきで打ち鳴らし、その両側には音頭方が、男性の組と女性の組が向かい合ってお題目を掛け合い唄います。踊り手はその周りで輪になり、扇や団扇を手に持ち、表裏を返しながら踊ります。題目踊は4曲続けて踊られますが、最初の「法法」だけは右回り、2曲目の「蓮華経」からは左回りとなり、3曲目「一代諸経」と4曲目の「歎陀音頭」では太鼓がありません。

題目踊が終わると、さし踊が踊られます。「さし踊」も洛北に古くから伝わる踊りです。比叡山・横川の僧、鉄扇が「天台声明」を民衆に合うように作り直し,普及したものと伝えられています。題目踊は中心に太鼓が置かれますが、さし踊りでは中心に櫓が置かれ、その上で音頭取りたちが踊り歌を歌います。踊り手たちは櫓の周りを輪になって踊ります。

公益財団法人の活動として、さし踊を通じて地域活性化に寄与できるよう、小学校の児童をはじめ、地域のみなさんを対象とした踊りの講習会を行うほか、松ヶ崎夏祭りや区民運動会での実演を行っています。

松ケ崎題目踊・さし踊は、昭和58年6月に、京都市無形民俗文化財に登録されています。

(参考:映像記録『松ケ崎題目踊・さし踊 普及啓発編』2014年)

Q&A

よくある質問をQ&A形式でまとめました。

Q:「妙」と「法」は何を表しているのですか。

A:日蓮宗では「法華経」を信奉しており、その経典の題名を口にする「題目唱和」を行います。そこで唱えられるのが「南無妙法蓮華経」であり、「妙」・「法」はそれを象徴する文字です。

Q:送り火当日は西山・東山に登れますか。

A:通年入山は禁止です。

Q:ボランティアの受け入れはされていますか。

A:ボランティアの受け入れはしていません。

Q:護摩木志納の受付場所と時間を教えてください。

A:護摩木志納の受付については、トップページの「NEWS」に掲載いたしますので、ご確認ください。

Q:題目踊・さし踊は誰でも参加できますか。

A:はい。題目踊は主に松ヶ崎立正会の奉仕者が踊りますが、さし踊りは踊りたい人なら誰でも踊れます(感染症対策などで制限される場合があります)。

Q:雨天の場合、題目踊・さし踊は実施されますか。

A:涌泉寺の本堂の中で行います。

 

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