大文字送り火 京都市登録無形民俗文化財
起源と歴史
大の文字と解説が書かれた掛軸の写真
足利説を記した軸
(相国寺保管)

大文字送り火の起源には諸説あり、確かなところは現在もわかっていません。
ここでは、大文字送り火の創始に関する伝承や、歴史史料に見られる記述を紹介します。

大文字送り火の発案者に関する説は大きく二つに分かれています。

① 平安時代初期に弘法大師空海(774~835)が始めたとする説

坂内直頼(生没年不詳)が著した民間の年中行事解説書『山城四季物語』(1674刊)や、秋里籬島(生没年不詳)が著した地誌『都名所図会』(1780刊)による説。その昔、大文字山(如意ヶ嶽)麓にあった浄土寺が大火に見舞われた際に、本尊・阿弥陀仏が山上に飛翔して光明を放つという奇跡が起こった。弘法大師がその光明を年中行事として後世に残そうとして放射線状に近い「大」の字を書いた、という伝承があります。

その他弘法大師に関わる伝承が複数存在しています。

  • 弘仁年間(810~823)に疫病が流行した際、弘法大師が如意ケ嶽に登り護摩を焚き、玉体安穏を祈った(熊谷直恭『大文字噺』江戸後期刊)
  • 中国・唐代の字舞(じまい、人が文字の形になって舞う雅楽)において火で文字を表したことにならい、弘法大師が東山に「大」の字を作った(碓井小三郎『京都坊目誌』1915刊)

ただ、弘法大師説は15世紀以降に語られるようになった説であり、平安時代初期から江戸時代前期までの空白期間の状況が分からないため、信憑性は低いとされています。

② 室町時代中期に足利義政(1435~90)が始めたとする説

黒川道祐(?~1691)が著した京都中心の年中行事解説書『日次紀事(ひなみきじ)』(1676刊)や北村季吟(1624~1705)が著した地誌『菟芸泥赴(つぎねふ)』(1684刊)では、「大」の字の書き手として相国寺の横川景三(おうせんけいさん、1429~93)が挙げられています。坂内直頼が著した地誌『山州名跡志』(1711刊)には、上記に加えて足利義政の発案であるという記載があります。直頼は『山城四季物語』(1674刊)では弘法大師説を採っていましたが、数十年を経て足利義政説に傾いているのは注目されます。

曲亭馬琴(1767~1848)が著した季語分類事典『俳諧歳時記』(1803刊)には、延徳元年(1489)に鈎の陣で没した足利義尚の冥福を祈るために始めた、としています。横川景三は足利義政からの信頼が厚かった僧侶として知られ、足利義尚は義政の子であるため、いずれも足利義政とのかかわりがある説といえます。

また、発案者ではありませんが、「大」の字の書き手として以下の人物も挙げられています。

  • 江戸時代初期の公家で能書家の近衛信尹(のぶただ、1565~1614)。(中川喜雲の観光案内書『案内者』(1662刊))
  • 青蓮院門主(具体的な人物名は不明)。(山本泰順の地誌『洛陽名所集』(1658刊))

現在、歴史史料で明らかに大文字送り火だと分かる記述で最も古いと考えられるものは、江戸時代前期の公家・小槻忠利(1600~63)の日記『忠利宿禰記』の慶安2年(1649)7月16日条です。そこには、

山門へのほりて市々の火を見物、西山大文字、舟、東山大文字、各見事也

という記載があります。これ以前に成立している、吉田神社の神主・吉田兼見(1535~1610)の日記『兼見卿記』や明経博士・船橋秀賢(1575~1614)の日記『慶長日件録』などの史料において、「山々の万灯籠を見物した」といった記載がありますが、「東山如意ケ嶽」の「大文字」であるとはっきり記されているわけではありません。これら「万灯籠」の記述がいつごろ、どのようにして「送り火」へと変わっていくかは、近年再検討が進められています(坂田 2020)。いずれにせよ、これらの記述から、祖霊を浄土へ送る行事の一環として、山に登って火を点すことが行われていたことは確実で、中世末期には現在の「五山送り火」の前身となる盆の火の行事が存在していたといえるでしょう。

送り火の点火執行

8月15日の午後と16日の午前は、銀閣寺の門前で一般の方々からの護摩木(割木)の志納を受け付けています。墨で先祖供養や生存する人の無病息災などが記された護摩木は、送り火の点火資材の一部となります。16日は午後7時に「大」の字の中心にある弘法大師堂でお灯明がともされ、浄土院の住職及び保存会員らにより般若心経があげられます。その後、このお灯明を親火に移し、合図によって一斉に火床に点火されます。

保存会 保存会地図

特定非営利活動法人大文字保存会
会員数:52戸
旧浄土寺村の旧家52戸で構成されており、各家で火床の受け持ちが決まっています(村上 2013)。

火床の構造
火床の写真解説。火床は松割木で組まれている。中に松葉が入れられ、周りは麦わらで囲む。 上部には護摩木を置く。
火床の構造

江戸初期は、山肌に杭をうち、それに松明を結びつけて点火していたようですが(『案内者』)、寛文(1661~1673)・延宝(1673~1681)のころに今のように割木を井桁に組む方法に変わったようです(坂内直頼の年中行事書『都歳時記』、江戸中期刊)。当初は、直接、山肌に割木を井桁に組んで積み上げ、その間に松葉を入れて火床としていました。昭和44年(1969)に各火床を土盛りして整地し、大谷石を設置しました。「大」の中心は金尾(かなわ)と称し、特別大きく大谷石の火床が組まれています。

大文字の形。一画目(一文字)80m。二画目(北の流れ)160m。三画目(南の流れ)120m。 火床の数 かなわ上9ヶ所 かなわ左8ヶ所 かなわ右10ヶ所 左はらい20ヶ所 右はらい27ヶ所 合計75ヶ所
全体の大きさと各々の火床数
点火資材

松割木を井桁に積み重ね(高さ約1.3m)、その間に松葉を入れます。そのまわりを麦ワラで囲っています。
松割木:600束、松葉:100束、麦ワラ:100束

Q&A

よくある質問をQ&A形式でまとめました。

Q:如意ヶ嶽と大文字山は同じ山ですか。同じであれば、どちらが正しいのですか。

A:東山連峰の一つ如意ヶ嶽(474m)の支峰を大文字山(466m)といいます。大文字送り火の火床は,それらの斜面で標高300~350m辺りに位置しています。どちらも正しいのですが、左大文字送り火が点される山も「大文字山」と呼びますので、大文字送り火の方を如意ヶ嶽と呼ぶことが多いと思われます。

Q:送り火当日は如意ヶ嶽(大文字山)に登れますか。

A:基本的に終日、入山は禁止となっております。

Q:護摩木志納の受付場所と時間を教えてください。

A:護摩木志納の受付については、トップページの「NEWS」に掲載いたしますので、ご確認ください。

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