西方寺は古くは西賀茂【來迎山大舩院西方寺】と号す、浄土宗知恩院派の宗派です。船山の南に位置し、神光院の西にあります。
寺伝によれば、承和十四年(847)慈覚大師円仁が天台宗の寺として開創し、その後正和年間(1312〜1317)に道空上人が中興し、浄土宗に改宗したと言われています。道空上人が干菜寺(ほしなでら現左京区)の中興開山とされることから、当寺は干菜寺の末寺となり、以後六斉念佛弘通として栄えました。
宝暦五年(1755)の六斎支配村方控牒(干菜寺文書)には「西加茂西方寺講中」とあり、今も毎年八月十六日の五山送り火の夜、船形万燈籠送り火を点火した後、当寺境内で六斎念佛が行われます。六斎念佛に使用される楽器は鉦(かね)と太鼓のみで他の地域で見られる芸能に題材を求めた曲はなく、六斎念佛のみが伝えられるもので、六斎念佛の古態を伝えるものです。

正式には『西方寺六斎念佛』といいます。
送り火終了後、西方寺の境内において住職の読経ならびに、西方寺六斎念仏保存会員により行われます。
六斎念佛は、芸能的六斎とも呼ばれる「空也堂系」と、古典的六斎と呼ばれる「干菜寺系」六斎念佛の二つに分けることが出来ます。『西方寺六斎念佛』は後者の「干菜寺系」で、伝来の「念佛の本旨」を貫こうとして伝わってきたものです。『西方寺六斎念佛』は、重要無形民俗文化財に指定されています。
六斎とは、月の内8・14・15・23・29・30日の六度の斎日のことです。
「六斎念佛」という言葉が、文献上に登場するのは中世末期以降でその初見は、大和阪合部村(奈良県五条市待乳峠)の西福寺板碑群の中で、「六斎念佛供養 延徳二年九月十五日」とあります。これにより、六斎念佛の成立は、室町中期以前にまで遡り、高野聖所縁の地であることが六斎念佛の伝播と高野山の念佛聖の関係がうかがえます